昭和五十七年四月二十六日 朝の御理解
御理解第一節
今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。
昨日は婦人会に引き続いて幹部研修会のおかげを頂きましたが、確かに幹部といわれる方達のお話でからも、本当に、ま今日の御理解じゃないですけれども、目が覚めるようなお話ばっかりでございましたが、中には善導寺の原さんが発表しとられました最後に、宅祭が近づいてきよる、いろんな問題を抱えておられるけれどもね、どんな場合であっても、いわゆる次元の違った世界にドンとこう座らせて頂いてと、こういうことを云うておられます。
どんな問題があっても、どんな事があってもね、いうならば慌てんですむと、でも申しましょうかね。次元の違った世界にドンと座ってその問題を見ていくというのです。
私はあのうまあこれは深い意味があることでしょうけれども、今天地の開ける音を聞いて眼をさますと、こうおっしゃるが、その眼をさました姿というのは、どういう姿だろうか。
あれは何て云うですかね。あの「帰りし女房」という踊りがありますが、あのセリフの中に、ま、放に身を崩して、そして嫁御にも逃げられ、そして一人の子供を抱いて、難儀しておるというま、節の踊りなんですよね。しかもそのうえ、七つ下がれば鳥目の病。いわゆるもらい乳をして歩いてね、初めてそういう落ちぶれ果てて初めて目が覚めたとこう云うのですね。思えば思えば、そのにくい、古参というのがま、にま、ぼうけてしもうて、財産を使い果たしてしもうてね、嫁御には逃げられた、眼は見えんようになる、小さい子供の乳をもろうて歩いて歩く。そう云うことになって初めて眼がさめたというセリフがありますよね、だからこういう眼の覚め方ではないのです。目が覚める。今天地の開ける音を聞いてというのは、今こそ天地の心を心をして、天地の心が分かる神様の思いが分かる。初めて目が覚めたというのはそういうこと。
昨日原さんが発表されたのは、いうならばもう目が覚めた者の表現であると思うんです。今までは難儀と思うておった、困った事であると思うておったその事がいうなら難儀な事でもない。いわゆる見解が変わってくるという、本当の事が分かってくるという。
たまたま昨日は、文男先生がその事を、私はその意味が分かりませんけれども、一次元とか、二次元とか三次元とか色々その、ま、その次元の違った世界というのは、こう言うものだという説明をしておりましたがね、本当の事が分かるというね。私共の心の中に安心が生まれるというのは、そういう見方が出来る。どんな場合であっても、慌てんですむ。どんな場合があってもお礼が言えれるね。そういう心の状態が私は目が覚めた人の姿であるとね、長年、何十年信心しておっても、ただ、難儀な事からどうぞどうぞ助けて下さいと云うだけの信心で終わったんでは、ま、信心のあるものもない者も考え方においても、たいして変わらないね、信心の世界、いわゆる真の信心の世界に入ったら、まず、だから、天地の開ける音を聞いて眼をさませてもろうてね、おかげを頂かなきゃならん。
昨日、一昨日から名古屋の方から姉弟で参拝してみえておる。お姉さんの方は何回か参ってみえて、弟さんが、弟さんが親との間にいろんないざこざがあってもう、親を恨んで恨んで恨み抜いて、毎月も、それこそ定期便のように、長々と手紙を書いて、もう恨みつらみを書いてですね、も、それこそ、祈り殺してやらんとばかり、肉親の親に対してですよ、それを横目で見ておられる姉さんが悲しいことだと思うて信心の話をするけれども、わからんからね。
とにかくね、神様とは云わずにね、昨日一昨日、一緒にみえられた。ところがここが教会だったもんだから、ぼくには、そげなもんな性に合わん、というてとうとう表まで来てから、入らんという。とまあ、云うたというわけなんです。
それでま、結局は入られたそうですが、ま、若先生の部屋でいろいろ話を聞いて、成る程話を聞くと本当にそうでもあろうというような面もありますけれども、一晩中、若先生の部屋で話を頂いて、その少し心が動いたのでしょう。昨日は帰りがけに此処に出て見えたんです。
ですから本当にその、親子がね、親を恨まねばならんという程しのその事ほど、ま、不幸せな事はないと思うんですけれども、そのお母さんになる方が先月お参りをして、その事のお届けがあっ取りました。そしたら、その毎月その、定期便のように、その恨みつらみの手紙をそれこそ身の毛もよだつような手紙の文章をです、それもきちーっと書いても、便せん十枚位も、その事を書いて、ま、その手紙を先月持って見えましたが、此処にお願いをさして頂いたら、今月はその手紙がこなかったと、言うお礼のお届けが先だってあっておりましたが、その姉弟の方が、ま、その方を導いて神様と云うてもこんから、ま、よかとこに連れていくからこいというてその此処へ連れてこられた。
ところが此処が金光様、教会だったからも、自分には性には阿わん、というてもう、今にも帰られそうになられるのを止めて、ま、姉弟二人、一晩泊めてもらうて、おかげを頂かれた。して話を聞いて少しは感じられたのでしょう、此処まで出てきなさったですから。で、私はま、とにかくねま、昔から人を呪わば穴ふたつという言葉があるね。ですから人を恨むとか、恨み、まあいうなら仇討ちをすると云うても、又自分が仇として狙われねばならん事になってくるのですからね。
もうここの信心は心一つですべてを創るといわれるのだから、一つまあ、人を恨んだり、憎んだりするということが自分自身もこんなに不幸せであるということを分からせてもらい、いや、憎んでおったその人をかえっておかげでという風に思えれるようになるのが、ま信心だというふうにま、申しましたが、何か少しは感じなさったような感じで、又出てお出でなさいという、又出てくるといったような事で昨日はまあ、おかえりになったんですけれどもね、本当にいうならばま、恨みに恨み抜いてね、おったものがですね。その恨んでおった相手のことが、そのその事が神様の働きであり、それが神様であったという風に分かるということが、本然として分かるということが、私はあの眼が覚めるという事じゃないかと思うんですね。
だから合楽で信心の稽古をさして頂くならね、困るとか、難儀ということはない。それこそ原さんじゃないけれども、どういうことの場合であっても、ドンと次元の違った世界から眺めておる、おれれる、おかげを頂ける信心を身につけたいね、信心のない人がま、恨んだり不平不足をいうたり又は、腹を立てたりしておりますね、それが腹のたつどころか、不平不足をいうどころか、お礼を申し上げれれるような心の状態にすんだときに、初めていわゆる次元の違った世界に住んだということになり、いわゆる目が覚めたということになるんじゃないでしょうか。
合楽ではこの眼を覚まさなければ合楽通いの値打ちはないといさえ私は思います。ね。信心のない者と一様に腹を立てたり、悔やんだりね、情なかったりしておったんでは、信心頂いとる値打ちはないです。ね。 ま、今日の天地の開ける音を聞いて眼をさませ、ということはもっとふかーい御神意というものがあると思うんですけれどもね。
私は昨日、原さんが云われる、も、どんな場合であっても、次元の違った世界にドンと座っておれれるところまでは、お互い信心を進めたいとおもいますね。 どうぞ